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あなたにとってM-1とは?
昨年行われたM-1グランプリ2019の開催前に、六本木駅にとある広告が貼られ、話題になりました。
それは、歴代のM-1王者に「あなたにとってM-1とは?」という質問を投げかけ、その答えを写真と共に紹介するというものです。
歴代王者がどのようにM-1に対して向き合っていたのかがそれぞれわかり、それがとても格好良く演出をされているという素晴らしい広告でした。
SNSでもRADWIMPSの「前前前夜」の曲をのせた動画が素晴らしいと話題になりました。
こちらがその動画です↓
動画では歴代王者の思いが一言にまとめられていますが、その一言の裏には壮大な想いや考えがあります。
ここでは、各チャンピオンが「あなたにとってM-1とは?」の答えにどのような想いを込めているのか、噛み砕きながら解説していきたいと思います。
歴代王者の答え
中川家 「無我夢中」
2001年の第1回M-1グランプリ王者である中川家は「無我夢中」と答えました。
中川家は当時は出場資格は芸歴10年目までと制限されたM-1グランプリに、ラストイヤーで優勝候補の筆頭として出場しました。
ゴールデン番組で漫才のネタを披露し、島田紳助、松本人志、青島幸男といった錚々たる審査員に評価をされるという催しはそれまでなく、出場者の緊張は今のM-1グランプリの比ではなかったようです。
そんな中、トップバッターで登場して漫才をするときの気持ちはまさに無我夢中だったのでしょう。
2人は 「今でも、あんなに緊張した漫才はない」(礼二)、「地獄でした」(剛)と振り返っています。
ナイツ塙は著書『言い訳』の中で、中川家が優勝したことで、「良い意味でも悪い意味でもM-1の方向性が決まった」と語っています。
初代王者の中川家が正統派のしゃべくり漫才で優勝したことで、なんとなく「M-1はしゃべくり漫才のチャンピオンを決める大会だ」という色付けが暗黙的にされるようになります。
ちなみにトップバッターとして出場して優勝したのは中川家が最初で最後となっています。
ますだおかだ「道場破り」
2002年の第2回M-1グランプリ王者である、ますだおかだは「道場破り」と答えました。
これは、当時のますだおかだの境遇をよく表しています。
第一回の時点で中川家につぐ実力派として知られていたますだおかだは、松竹芸能という吉本のライバル事務所からの参戦で優勝することは叶いませんでした。
審査委員長が島田紳助であり、吉本主催の大会に参加するますだおかだは、アウェーな環境の中で優勝を果たしました。
敵の陣地に乗り込み、優勝をかっさらった様子は、まさに道場破りと言えます。
ますだおかだは非吉本の芸人でも優勝できることを示し、芸人たちのM-1への熱はより一層高まることになります。
当時のますだおかだの漫才は、今の「閉店ガラガラ」や「ワォ!」などのギャグは入れない、正統派ど真ん中の漫才でした。
ここからもやはり、M-1で優勝すべきなのは正統派しゃべくり漫才だという認識が徐々に固まってきていることがわかります。
フットボールアワー「恋」
2003年の第3回M-1グランプリ王者であるフットボールアワーは「恋」と答えました。
フットボールアワーは若手の頃関西の漫才賞レースを総ナメにしましたがM-1グランプリは3年目の挑戦でようやくとることができました。
彼らにとって欲しくて欲しくてたまらない称号、それがM-1だったのでしょう。
フットボールアワーは第1回のM-1から3年連続で決勝に進出するも、これまでは優勝することはできていませんでした。
1回目の決勝戦では松本人志に55点を付けられ、後藤は引退まで考えたと語っています。
それでも漫才を諦めきれずにM-1に出場し続け、ようやく優勝を果たしたその姿はまさに恋だと言えます。
以下の記事ではM-1に恋したフットボールアワーの漫才の試行錯誤の軌跡を紹介しています↓
アンタッチャブル「乗換案内」
2004年の第4回M-1グランプリ王者であるアンタッチャブルは「乗換案内」と答えました。
優勝の前年の敗者復活でまさか自分たちが勝ち上がると思っておらず、舞台上で帰りの電車の乗換案内を見ていたことと、優勝した後で人生がまるっきり変わったことを掛けた言葉です。
M-1グランプリへの出場をきっかけにテレビ出演が増えていったアンタッチャブルにとって、M-1はまさに人生の乗換案内だったのでしょう。
この年にアンタッチャブルが出した673点は、2019年にミルクボーイが上回るまでは過去最高得点でした。
「全力脱力タイムズ」での復活が話題になりましたが、即興で行った漫才がM-1の頃と比べても色あせておらず、アンタッチャブルという芸人が如何に凄いかを改めて感じさせられました。
ちなみに、これまでは全て関西出身のコンビが優勝していましたが、アンタッチャブルは初の関東勢のM-1チャンピオンです。
ブラックマヨネーズ「自己鍛錬」
2005年の第5回M-1グランプリ王者であるブラックマヨネーズは「自己鍛錬」と答えました。
自分たちの考える漫才スタイルを貫き通し、2人で大笑いしながら作ったというネタで優勝を勝ち取ったブラックマヨネーズにとって、M-1はまさに自己鍛錬だったのでしょう。
ナイツ塙は著書『言い訳』の中で、この年のブラックマヨネーズのネタが過去のM-1の中で瞬間最大風速を記録したネタだと語っています。
4分間の中で喋り手の人間性が伝わってきて、後半にかけて最高の盛り上がりを見せるこのネタは何度見ても本当に面白いです。
松本人志もM-1後にブラックマヨネーズのことを絶賛する発言をよくしていました↓
チュートリアル「苦行」
2006年の第6回M-1グランプリ王者であるチュートリアルは「苦行」と答えました。
これまで何度も挑戦するがなかなか優勝できず、2006年にようやく優勝できたときにチュートリアルの2人が感じたのは「これでM-1に出なくていいんだ」という解放感だったそうです。
当初はオーソドックスなしゃべくり漫才をしながらも、徐々に徳井が普通ではないところに以上に食いつく「妄想漫才」とも呼ばれるスタイルの漫才に変化させていきます。
そうした試行錯誤の繰り返しは彼らにとってまさに苦行だったのでしょう。
しかし、その成果もあってか、チュートリアルはこの年のM-1では圧倒的な爆発力を持って優勝を勝ち取っています。
テレビの前で観ていもチュートリアルの勝ちは明らかで、ファイナルラウンドでは審査員全員がチュートリアルに投票するという形で完全優勝を果たしました。
サンドウィッチマン「一発逆転」
2007年の第7回M-1グランプリ王者であるサンドウィッチマンは「一発逆転」と答えました。
敗者復活戦で勝ち上がり、一気に優勝したサンドウィッチマンにとってM-1はまさに一発逆転だったのでしょう。
ほぼ無名の状態からM-1効果で一気にテレビの人気者になったという点で、彼らの芸人人生においても一発逆転だったと言えます。
敗者復活戦から勝ち上がったサンドウィッチマンは、勢いそのままにファーストラウンドを1位通過し、そのまま優勝まで駆け上がります。
オール巨人は放送内で「なんでこれだけのコンビが(そのまま決勝に残らず)敗者復活に回ってたんや」とも発言しています。
サンドウィッチマンの存在は、M-1予選の審査方法に疑問を投げかけるきっかけになりました。
また、ネタ作りを担当している富澤は、今ではM-1審査員の立場になっています↓
NONSTYLE「覚悟」
2008年の第8回M-1グランプリ王者であるNONSTYLEは「覚悟」と答えました。
優勝直前までは、ナルシストの井上を石田が面白おかしくイジる「イキり漫才」のスタイルで十分笑いを取っていたのですが、M-1決勝ではボケた後に太ももを叩いて自虐するという全く新しいスタイルの漫才を披露しました。
これまでのスタイルでは勝つことができないと考えた石田は、十分面白かった「イキり漫才」を捨て、新しい漫才に挑戦したのです。
過去のスタイルに甘んじない覚悟こそが優勝に繋がったのでしょう。
当時「『イキり漫才』がテレビで観れる」と思いながらM-1が観ていたら、全く新しい形式の漫才が始まり、驚いたことが記憶に残っています。
ちなみに、石田本人はM-1という競技に向けてボケの数を増やすために作った自虐スタイルの漫才は気に入っておらず、M-1以降はほとんどやることが無くなったそうです。
パンクブーブー「絆」
2009年の第9回M-1グランプリ王者であるパンクブーブーは「絆」と答えました。
パンクブーブーは優勝以前のM-1では、元々作っていた漫才から出来の良いものをM-1のネタとして使っていたのですが、この年はコンビで「しっかりM-1に向き合おう」との考えの下、M-1用のネタを作って挑戦しました。
改めてコンビで漫才に向き合った結果、コンビに絆が生まれ、M-1優勝に繋がったのでしょう。
パンクブーブーは最終決戦で7人の審査員全員から投票され、2006年のチュートリアル以来の完全優勝を果たしました。
その漫才は審査委員長の島田紳助に「楽な審査」だったとまで言わしめました。
また、M-1とTHE MANZAIの両方で優勝した経験があるのは、今のところパンクブーブーのみです。
笑い飯「年末恒例」
2010年の第10回M-1グランプリ王者である笑い飯は「毎年恒例」と答えました。
笑い飯は2002年の第2回から9年連続でM-1決勝に進出しており、 「ミスターM-1」や「M-1の申し子」 と呼ばれる程でした。
ラストイヤーだった2010年にようやく優勝することができるのですが、笑い飯にとってM-1決勝に出場するのはもはや毎年恒例だったのでしょう。
9年連続で決勝に残るという記録は、おそらくこれからも破られることは無いのではないかと思います。
笑い飯は、いつの間にかM-1決勝がある毎年冬には風邪をひかない体質になっていたとも語っています。
既に漫才のスタイルはよく知られているという不利な状況ながらも、毎年決勝に残り続けて高得点を獲得する笑い飯は、間違いなくM-1グランプリの主役でした。
トレンディエンジェル「夢と現実」
2015年の第11回M-1グランプリ王者であるトレンディエンジェルは「夢と現実」と答えました。
2011年~2014年の間はM-1グランプリは行われず、2015年に5年ぶりに復活します。
この年からM-1の出場資格は結成15年目までのコンビとなります。
トレンディエンジェルはM-1優勝を夢として追いかけ続けていましたが、実際に優勝してみると目標を失い、一気にそのギャップが現実として目の前にやってきたと語っています。
1つの目標に向かって努力し続けた後に、いざその目標を達成してしまった時に、ゴールが無くなってしまって苦しむというのは、王者にしかわからない苦悩なのでしょう。
敗者復活から勝ち上がり、一気に優勝まで駆け抜けたトレンディエンジェルの勢いは他の芸人からも恐れられていたようです。
銀シャリ「武闘会」
2016年の第12回M-1グランプリ王者である銀シャリは「武闘会」と答えました。
各コンビがM-1に向けて漫才を一年間磨き続け、成果をぶつけ合うM-1グランプリは、まさに武闘会と例えるのにふさわしい場だと言えます。
銀シャリはM-1優勝をきっかけに、新しい形の漫才に挑戦したいという気持ちが生まれたと語っており、漫才のスタイルをどんどん進化させ続けています。
また、この年は銀シャリ、和牛、スーパーマラドーナの三つ巴が非常に印象に残る回でした↓
とろサーモン「優勝炎上」
2017年の第13回M-1グランプリ王者である、とろサーモンは「優勝炎上」と答えました。
半分冗談も入っていますが、優勝後に審査員に暴言を吐く飲み会の動画が流出し、大炎上した事件の印象がそれほど大きかったのでしょう。
せっかくM-1チャンピオンになったにも関わらず、多くの人には炎上のことしか印象に残っていないというのは非常に残念です。
とろサーモンは15年目のラストイヤーで初めて決勝に進出し、見事優勝を勝ち取りました。
2人は芸人を辞める覚悟で決勝の舞台に立ち、昔から自分たちが持つテッパンのネタを披露して優勝しました。
長い下積み時代を経て、ようやく優勝した2人の姿は多くの人を感動させました。
霜降り明星「すべての始まり」
2018年の第14回M-1グランプリ王者である霜降り明星は「すべての始まり」と答えました。
M-1を見て芸人に憧れ、M-1で漫才を知ったという霜降り明星にとって、M-1はすべての始まりと言っても過言ではないのでしょう。
優勝時点でせいやは26歳、粗品は25歳と、霜降り明星は史上最年少のチャンピオンとなりました。
彼らが小学生だった頃にM-1が始まっているので、霜降り明星はM-1の影響をモロに受けた世代です。
そんな幼少期から見続けてきたM-1グランプリで王者になった喜びは言葉では言い表せない程だったのでしょう。
彼らはM-1で優勝して初めて本物の芸人になれた気がしたと語っており、今ではお笑い第7世代のリーダー的存在として、テレビでも大活躍しています。
まとめ
いかがだったでしょうか。
数々のお笑い賞レースの中でも、やはりM-1グランプリは別格で、王者たちにとって特別な思い入れがある大会だったということが伝わってきます。
これからはどんな新しいチャンピオンが現れるのか、これからも毎年M-1グランプリが楽しみです。
過去のM-1グランプリの内容はアマゾンプライムで観ることができるので、振り返ってみるのも良いでしょう↓
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